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もっと甘えて 08

last update Last Updated: 2025-04-10 04:56:28

すうっと息を吸ってから、ポロン……と鍵盤を叩く。とたんにピアノの世界に引き込まれるような感覚に、春花は胸を震わせた。指が鍵盤に吸い付くように動いていく。誰のためでもない、自分のために弾くピアノ。音楽の世界は心地良い。

普段のレッスン時の「春花先生」とは違う、ピアニスト山名春花がそこにはいた。

「すごい、山名さんってこんなにピアノ上手いんだ!」

「やっぱり先生ってすごいのねぇ」

感嘆のざわめきが起こる中、葉月が静に耳打ちする。

「最近山名さんの顔色がいいと思っていたんだけど、きっとあなたのおかげなのね。あなたと一緒にいるからとても幸せそう」

「それならよかったです。でも俺の方が春花と一緒にいて幸せなんです。店長さん、これからも春花をよろしくお願いします」

「こちらこそ。山名さんには期待してるのよ。というわけで、山名さんの次はピアニスト桐谷静が一曲披露していただけるかしら。一曲でも二曲でも、飽きるまで弾いてもらって構わないんだけど」

「なかなかハードですね」

「ふふっ、商売上手って言ってほしいわね」

葉月は不適に笑い、静は苦笑する。とても雰囲気のいい店舗なのはやはり店長の葉月のリーダーシップの賜物で、そんなところで働いている春花に以前「辞めたら」などと軽はずみに口にしてしまったことを、静は改めて反省した。
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    放課後の音楽室は傾き始めた太陽の日差しが燦々と降り注いで、室内をセピア色に染めていた。春花《はるか》は耳を研ぎ澄ます。隣に座る静《せい》と目配せをし呼吸を合わせ、指先に神経を集中させた。静のすうっという呼吸音を合図に指を動かす。ポロンポロンと柔らかいピアノの音色が教室に響き渡り、心地よい空間が生み出された。山名春花《やまなはるか》と桐谷静《きりたにせい》は高校三年生。一年のときから音楽部に所属している。二人ともピアノが得意で、合唱コンクールのときはどちらがピアノを担当するかでよく議論になった。「桐谷くんのピアノはすごいから」たいていは春花がそう結論付けて身を引いていたのだが、いつからか静も、「今回は山名の方が上手いと思う」と春花のピアノの腕を認めるようになっていた。もともと合唱に力を入れていた音楽部だったが、二人のピアノの実力を認めていた顧問は音楽部とは別に、連弾でコンクールに出場してみないかと提案した。ピアノコンクールは予選、本選、コンサートと一年がかりのイベントだ。当然予選を突破しなければ次へ進めないのだが、春花と静は毎日放課後に音楽室で練習に励んだ。高校三年生ともなると基本的に部活は夏の大会を最後に引退となる。そして受験モードへ移行していくわけなのだが、順調に予選を突破した二人は夏を過ぎても音楽室に入り浸っていた。

    Last Updated : 2025-02-26

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    春花は無事一週間で退院でき、街も人も何事もなかったかのように元通りの平穏を取り戻していた。だが春花だけは違う。隣には静がいて、店には葉月がいる。まわりの景色も何も変わらないのに、春花の心だけどこかに置き忘れてきてしまったように感じていた。仕事復帰も、葉月からゆっくりでいいと言われている。そんな優しさが余計に心苦しい。春花にはたくさんの生徒がいたのだ。今回の件で、店にも生徒たちにも迷惑をかけてしまった。物騒だからとレッスンを辞める人もいたと聞き、その責任の重さに胸が潰れそうになった。「店長、私……」差し出した封筒。 退職届と書かれた文字を見て、葉月は受け取りを拒否した。「悪いけど認められないわ。もし山名さんが責任を感じて店に迷惑をかけたと思うなら、今まで以上に働いてちょうだい。簡単に辞めるなんて言わないで。今通ってる生徒さんたちを裏切ることになるのよ。みんなあなたを待ってるんだから」「でも……」「責任を感じて辞めるっていうのだけはやめて。もし山名さんに責任があったとしても、それで辞めさせるかどうかの判断は店長である私が決める」「……はい」「まあ、それとは別で、あなたの今後の人生を考えて辞める選択をするなら、その時はきちんと受け入れるわ」葉月の言うとおり、今の春花の気持ちは迷惑をかけた責任を取ろうとしか考えていない。これからの自分のことなど考える余裕がないのだ。それほどまでに今回の事件は春花に罪悪感を植えつけていた。

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 03

    春花の脇腹の傷は、血が流れた割には思ったよりも浅く、命に別状はなかった。グキッと曲がった左手首は幸い骨には異常がなく、捻挫との診断だった。だが数日の入院を余儀なくされた。ベッドに横たわる春花の左手首には仰々しく包帯が巻かれており、静は悲痛な面持ちでそっと手を添える。「痛みはある?」「薬のおかげかな、今は大丈夫」「春花、ごめん。俺が守らなきゃいけなかったのに」「ううん。静のせいじゃない。元はと言えば私が変な男にひっかかったからいけないの。そのせいで静に迷惑かけちゃって……本当にごめんなさい」「春花のせいじゃない」「いいの。静が無事だったから。私のせいで静がケガしたら、それこそ耐えられなかったよ」春花の左手に添えられた静の手の上に、春花は右手を添えた。痛々しいほどに健気な春花に静は胸が苦しくてたまらなくなる。守らなきゃいけなかった、守るべき存在だった春花に逆に守られてしまった。自分だけ無傷なのが情けなくて悔しくてたまらない。「ねえ静、刺されたのは脇腹だし捻挫したのは左手だから、利き手は普通に使えるのよ?」「ダメだ。俺がすべてやるから」運ばれてきた夕食を前にして、春花は戸惑いを隠せないでいた。静が箸を渡してくれないのだ。「ほら、口開けて」「恥ずかしいから自分で食べ……むぐっ」有無を言わさずこれでもかと過保護に取り扱われ、成すがままの入院生活となったのだった。

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    「っ!」「ぐっ!」脇腹に鋭い痛みが走り、春花は体制を崩しながら倒れまいと必死に手をつく。ぐきっという鈍い感覚に顔を歪めるが、脇腹の痛みの方が強く意識を保とうとするだけで精一杯だ。静は春花に突き飛ばされるまま、道路にごろりと転がる。「キャー!」誰かの悲鳴と共に静が見た光景は、苦痛に顔を歪ませながら地面にうずくまる春花の姿だった。「春花!」抱き寄せようと手を添えると、ぬめりとした感触に戦慄が走る。静の手には春花の血がべっとりと付いており、一気に血の気が引いていった。「春花しっかり!」「静、ケガは?」「俺は何ともない」「……静が……怪我しなくてよかった。ピアニストは……怪我が命取りだもんね」わずかに微笑む春花に静は唇を噛み締める。「何言ってるんだ! 今救急車を!」静の呼び掛けに、春花は青白い顔をしながら小さく頷く。静の手のひらから春花の血がこぼれ落ちる。止めたくても止められない、赤い血がぼたぼたと地面を染めた。「春花! 春花、大丈夫だから」「……静が無事なら、それでいい」「よくない! 今救急車が来るからな!」ザワザワと恐怖に怯える通行人たち。 勇気ある者たちに取り押さえられながらも奇声をあげ続ける高志。 騒ぎに気付いて店を飛び出してきた葉月。 そして祈るように春花を抱きしめる静。泣きそうな静の顔が春花の視界に入る。(ああ、静に迷惑かけちゃった……)やがて救急車とパトカーの近付くサイレンの音と共に、春花の意識は混濁していった。

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